ハッブル定数の緊張
よみ方
はっぶるていすうのきんちょう
英 語
Hubble tension
説 明
宇宙初期、具体的には宇宙の晴れ上がり時点(宇宙誕生から約38万年後)、から我々に届く宇宙マイクロ波背景放射(CMB)のデータを基に構築された宇宙モデルが与えるハッブル定数と、そこから138億年経過した現在の宇宙の観測から決められるハッブル定数の間に、観測誤差を大きく越える食い違いがあることを指す言葉。英語をそのまま使って「ハッブルテンション」とも言う。
銀河の3次元分布(宇宙の大規模構造)の観測や宇宙マイクロ波背景放射の等方性の観測などから、宇宙空間は数100メガパーセク以上の十分に大きなスケールで平均してみると、近似的に一様等方とみなすことができる。現代宇宙論は、これらの観測により一様等方空間が等方的に膨張しているという時空モデル(ロバートソン-ウォーカー計量に基づくモデル)をもとに構築されている。多くの観測事実をよく説明ができ、現時点で標準宇宙モデルとされているのはΛCDMモデル(Λは宇宙定数もしくはそれを拡張したダークエネルギーを表す略号で、CDM は冷たいダークマターの英語Cold Dark Matterの略号。CDMモデルも参照)である。
ハッブル定数(以下では $H_0$ と表す)は宇宙の現在の膨張率を表すパラメータであるが、その決定方法は大きく分けて二種類ある。一つは、現在に近い宇宙(銀河系=天の川銀河からそれほど遠くない宇宙空間)にある銀河や銀河団などの観測から宇宙モデルを用いることなく直接ハッブル定数を決定する方法である。最も基本的な手法は、それがハッブル-ルメートルの法則( $v = H_0\,r$ )の比例定数であることを利用する。基本的には、現在に近い宇宙にある銀河の後退速度 $v$ をスペクトルの赤方偏移から測定し、距離はしごを用いて銀河までの距離 $r$ を求めれば、両者の割り算( $H_0 = v/r$ )からハッブル定数が求まる。実際には、銀河の特異運動やコスミックバリアンスの影響を避けるために、多数の銀河に対する平均値を求める必要がある。距離はしごで用いるさまざまな標準光源のなかで、最も遠方まで届き $H_0$ の決定に重要なものはⅠa型超新星である。Ⅰa型超新星まで届く距離はしごはセファイドや赤色巨星分枝の先端にある星の明るさなどの近傍銀河で使える距離指標に基づいて較正(calibration:目盛り付け)をする必要がある。この手法以外にも、最近では強い重力レンズによるクェーサーの二重像の時間変化における変光時間ずれ、活動銀河核のメーザー天体の運動、重力波の観測などから $H_0$ を決める方法なども開拓されてきている。
これに対して、宇宙マイクロ波背景放射に基づく方法からも $H_0$ を正確に測定できる。晴れ上がり前の宇宙では、光子とバリオン(通常の物質)が相互作用のために一つの流体として振る舞い、疎密波の音波モードが存在した。この疎密波はバリオン音響振動(BAO)と呼ばれる。この音波に対応する波長は、宇宙マイクロ波背景放射で精密に測定されており、宇宙において大きさを測る「標準ものさし」(英語ではstandard ruler)を与える。このものさしは、晴れ上がり後にできる銀河の分布にも刻み込まれるので、標準ものさしの長さを反映して分布する銀河のあいだの見かけの離散角、あるいは赤方偏移の偏差から、宇宙論距離が測定でき、宇宙膨張の歴史が(したがってハッブル定数も)求められる(バリオン音響振動を参照)。
ただし、この方法はインフレーションが予言する宇宙の初期条件など初期宇宙の物理の仮定に基づいており、宇宙のモデルに依存した方法になっている。このバリオン音響振動の測定から求められた $H_0$ と、上記の方法で現在に近い宇宙の観測からモデルに関係なく求められた $H_0$ の間に有意な違いがあれば、ΛCDMモデルに基づく我々の宇宙進化に関する現在の理解に何らかの未知の物理が介在している可能性がある。
宇宙マイクロ波背景放射の観測が、COBE衛星、WMAP衛星、プランク衛星、および地上からの観測により精度が飛躍的に高まるのとほぼ同期して、現在に近い宇宙の観測もその精度を格段に高めつつある。ハッブル定数の緊張が話題に上り始めた2017年頃までの状況はハッブル定数の項目に記述されている。同項目の図4を本項目の図1として再掲してある。図2は図1と同じ形で2022年までのデータを含めたものである。2017年当時は「緊張」の度合は3σレベル(違いが偶然起きたのだとすれば1000回に1回程度の確率)であった。
図2と図3に2022年時点での状況を示す図を掲げる。僅か5年程度の間に莫大な数の研究が進んだことが分かる。観測精度が上がって不確かさ(誤差)が小さくなり、この時点でハッブル定数の緊張の度合は5σ以上のレベル(偶然の結果であれば100万回に1回以下程度の確率)となっている。現在の標準モデルとはいえ、ΛCDMモデルに基づく宇宙の進化には、まだ確認できていないダークエネルギーとダークマターの性質、ニュートリノや他の相対論的な粒子の性質、インフレーションの時期と性質などの仮定があるため、ハッブル定数の緊張は、現代の宇宙論・物理学の最重要課題の一つとして近年、観測と理論の双方から精力的な研究が進められている。
ハッブル定数の緊張と同様に、初期宇宙と現在に近い宇宙とのあいだで食い違いの兆候を見せるのが、宇宙における「構造形成の成長度合いを特徴付けるパラメータ(S8)」 である。この値が大きいほど、現在の宇宙で構造形成が進んでいる(すなわち物質の粗密のむらが大きい)。宇宙マイクロ波背景放射のデータが示唆するΛCDMモデルを現在まで進化させれば、現在の宇宙のS8の値を求められる。一方現在に近い宇宙では、宇宙大規模構造に伴う弱い重力レンズ効果、銀河分布の2点相関関数やパワースペクトル、銀河団の個数密度などから、より直接的にS8の値を求められる。図4に2022年時点での状況を示す図を掲げる。弱い重力レンズ効果の観測にはすばる望遠鏡のハイパーシュプリームカム(HSC)も重要な貢献をしている。この「S8の緊張」が「ハッブル定数の緊張」と同じ(未知の)原因によるのか、それとも全く独立の原因による現象なのかはまだ分かっていない。
現在に近い宇宙から求まるハッブル定数の観測値が深刻な矛盾をはらんだことは過去にもある。ハッブルが1929年の論文で求めた$H_0\sim500$ [km s-1 Mpc-1]に対応する宇宙年齢は約20億年だった。その頃、放射年代測定(放射性元素を参照)から推定される地球の年齢はどんどん古くなっており、1940年代には20億年を越えることが確実となった。これは深刻な問題であった。その後の研究で恒星には二つの種族があることが分かり、セファイドを含む変光星の周期-光度関係が見直された。ハッブルが銀河の写真で恒星とHⅡ領域を見誤ったものがあることも含めて、ハッブルによる銀河の距離推定が5倍程度間違っていたことが分かり問題は解決した。次は1990年代で $H_0\sim70-90$ がほぼ確実視された頃である。対応する宇宙年齢は140-110億年となる。このときは、銀河系の球状星団中の最も古い星の年齢が宇宙年齢を超えるという深刻な問題が持ち上がった。この問題は1998-2000にかけて宇宙の加速膨張が発見されて解決した。このように考えると現在は「第3のハッブル定数の緊張」の時代といえるのかも知れない。過去2回の「緊張」はいずれも画期的な発見をもたらしたが、今回はどのような展開が見られるだろうか。
2024年01月26日更新
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